7.板倉の恵信尼

正念寺:絵傳-7.板倉の恵信尼

 嘉禎元年(一二三五)頃、親鸞一家は京都に戻る。

その後、恵信尼は京都の親鸞の元を離れ、越後の板倉に生活の場を移す。

板倉周辺には恵信尼の子である小黒女房、信蓮房、益方入道らが住んでいたことから、板倉への転居は主に生活面での経済的理由が考えられる。

 「恵信尼文書」第七通から第十通には、覚信尼に譲った下人の動静や、恵信尼の板倉での暮らしの様子なども綴られている。

その中で、大病を患ったことや、うち続く凶作、飢餓、下人たちが逃げてしまったこと、熱病で亡くなった下人たちのことなど、様々な生活苦を語っている。

 画面には、豪雨による河川の氾濫をくい止めようとする農民たちや、収穫前に水浸しとなった田畑が描かれ、家の中では、針仕事などをして働く恵信尼が描かれている。

 「恵信尼文書」からは、子や孫たちを死なせまいと必死に暮らしを支える恵信尼の姿がうかがえ、当時八〇歳を過ぎた恵信尼の強靭なバイタリティーを感じさせる。

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