愛知県西尾市:真宗大谷派:正念寺

正念寺お話

お盆(盂蘭盆会)について

 お盆とは正しくは「盂蘭盆会」(うらぼんえ)と呼び、「盂蘭盆経」という経典に説かれるお話を基にした仏教行事です。

お釈迦様のお弟子に目連尊者という方がおられます。目連は神通力をもつといわれ、亡くなられた母親の事をたずね、死後の世界をのぞいて見ると、餓鬼道におち苦しんでいる母の姿を発見したのです。目連は驚き、ご飯を差し上げようとしますが、口に入れようとした瞬間に火炭となり、食べることができません。

目連は泣きながら、お釈迦様になんとか母を救えないか相談しました。すると、お釈迦様は夏安居(出家僧が一室にこもってする修行)の最終日である7月15日(旧暦)に修行僧たちに百味の飲食(おんじき)等を施しをしなさいとおっしゃいました。目連はそのとうりに、大勢の仏弟子たちに施しをすると、母は餓鬼道における苦しみを脱し天上界へのぼっていきました。人々は歓喜の踊りを踊り、これが「盆踊り」のおこりといわれます。

餓鬼道とは満足を知らない世界です。わが子のために何でもそろえてやりたい。あれもこれもと膨らむ欲求がおこります。子供を1人前に育てるには餓鬼道におちるほどの母の働きがあるということを、このお経は教えてくれます。

以来7月15日(旧暦)は親のご恩を感謝する日とされてきました。先祖の霊が帰るとするのは、日本固有の民俗信仰にもとづくものであり、仏教の教えとはかなり異質のものです。

親から先祖へと遡るかぎりない「いのち」に気づき、感謝する機縁とし、お念仏するのがお盆の迎え方ではないでしょうか。

 

地中蓮華の色と光

 浄土三部経の中で、最も多く拝誦され、私たちになじみ深いお経が『仏説阿弥陀経』です。その一節に、拝読したり、或いは読経を聞いた時に、調子のよさに印象深く耳に残る「青色青光・黄色黄光・赤色赤光・白色白光」という句があります。

これは、浄土の荘厳の様子を「池の中には車輪のように大きな蓮の華があって、青い花は青い光を、黄色の花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち、いずれも美しくその香りは気高く清らかである」と説かれている一節です。この四色の蓮の花が見事に美しく咲いているすがたは、大事な教訓を私たちに示しています。

その1が「多即一の原理」と言って、それぞれの色が個性を持ったまま、力一杯咲くことにより、1つに調和するということです。

例えば、何十人ものメンバーが音色の違う楽器を使い、それぞれが精一杯の力を出す事により、みごとな交響楽が出来上がるオーケストラのようです。異なった音同士が、響き合い、応え合い、援け合ってすばらしい音楽をつくり上げるのです。私たちが生きるこの娑婆世界でも、一人ひとりの役割も立場も違いますが、それぞれの場でベストを尽くすことにより、1つに機能するのです。

その2は「どの命にも光あり」ということです。

世間の風潮は、力の弱いものより強いもの、愚かなものより賢いもの、小さいものより大きいもの、無名なものより有名なもの、無用なものより有用なもの、見えないものより見えるもの、などを評価しがちです。一方的な物差しで多くのものを差別し、そのためどれだけ多くの人々が苦しんでいることでしょう。色とりどりの蓮がみな光を放っているように、「みんな違っていい」のです。

「バラバラでいっしょ」なのです。お互いの個性を認め合うことが出来る世界には民族間の争いもテロもありません。

童謡の「チューリップ」の歌詞にあるように、どの花見てもきれい、あらゆるいのちは光り、みんな平等の価値を持っているのです。

門徒もの知らず

 親鸞聖人は主著である『教行信証』の「化身土」の末尾で『般舟三昧経』を引用され「吉良日を視ることを得ざれ」と述べられています。

また蓮如上人も『御文』第一帖第九通で、同じ文章を引用されて、弥陀一仏に帰依する真宗門徒にとって、迷信・習俗の類は不用なものと教えられています。

しかしこの様な記述がなされたということは、当時一般では習俗信仰が盛んであったことのあらわれであり、真宗門徒はこれに惑わされないようにとの戒めでありました。

門徒たちはこの教えを忠実に守り続け、江戸時代になると他宗派の人から「門徒もの知らず」と謗られても、逆にそれを誇りとし、日柄・方角の善し悪し等、一般習俗を問題としていませんでした。

 六曜の中の1つに「友引」があります。「友引」はいつの頃からか「友を引く」と解釈され、葬式を行なうことがきらわれてきました。

しかし、江戸時代に出された暦によると、「あい引きとて勝負なし」とあり、これが本来の友引の意味です。

現在、広辞苑で六曜をみると、「暦日上の迷信」とあります

問題は「迷信」にとらわれ、葬式を出すことを恐れることにあります。

元来、真宗門徒はお念仏申すだけで、恐れる迷信は無かったはずです。

迷信にとらわれることが、いかに真宗の教えに反することか考えねばなりません。

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